7/02/2025

『モン トレゾール(わたしの宝物)』からっぽ

わたしは、仏さまの教えをもとに、出会うご縁によって心を磨いている、永遠の乙女『マリリン』です。


先日の、母のお見舞いでのエピソード。


その日は、兄がお休みで家にいたので、たまにはわたしの代わりにお見舞い行ってくれないかな?とモヤモヤしていた。


だって、いまの病院に入院してから一度も行ってないんですよ?信じられない。(少し怒り)


あんまりはっきりいうと角が立つと思い、少し穏やかに切り出した。


マリリン「いいな〜。お兄ちゃんは自由で。一日くらい変わって欲しいよ。母ちゃんのお見舞い。」


穏やかに言うはずが、

余計、不穏な空気が漂う言い方になってしまった。


兄「母ちゃんのところね〜〜。じゃあね。」

と言って、兄は出かけてしまった。


なんとも響かない兄の態度に腹が立ち、言わなきゃよかったと思った。


言ったところで、兄は変わらない。

心がクサクサしたまま、母ちゃんのところへ向かった。


母ちゃんは、あたしの顔を見るなり満面の笑顔を見せてくれた。マスクをするのを忘れていたようで、その笑顔がすごくよく分かった。


あぁ、やっぱり来てよかった。


兄とのやりとりがあったせいか、心底来てよかったと思えた。


面会時間、15分の間

ありがとうの気持ちをたくさん伝えた。

そして、迷惑もたくさんかけてしまったお詫びも一緒に。


母が佼成会に行っててよかったと、お見舞いのたびに伝えていた。それを聞いた母が、


「からっぽ」と言った。


からっぽって、なに?と聞くと、佼成会ばかり行って、お家をからっぽにしていたと。


わたしは、あぁ、そういえばそうだなと当時を振り返っていた。


母がいないのは寂しかった。

いて欲しいときに、いなかった。

けれど、母がいなかった分、自分で乗り越えなければいけない術を身につけたと思っている。


わたしは

「寂しかったけど、それでよかったんだよ。母ちゃんが一生懸命教会行ってくれてたから、みんな自立したし、こうして(信仰が)私につながってるんだから。」


そのとき、ふと開祖さまを思い出した。

開祖さまは、家族と離れてひとりで修行されていた時代があったことが脳裏に浮かんだ。


わたしは母に向かって

「母ちゃん、お家をからっぽにして修行するなんて、開祖さまみたいだね」と言ったら、それはそれは嬉しそうに、照れくさそうに笑っていた。


母を喜ばせるその言葉が出てきたのは、お稽古のおかげかもしれない。


いまわたしは、ご本部が行っている【苗代プロジェクト】というなかの、「編集術」を学ばせてもらっている。


編集という技を使って、モノゴトの見方や捉え方の方法を学ぶインターネットでの通信教育である。


ひとつだけ、ご紹介させて頂きますと

『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静をテーマに写真を撮り、その解説も一緒に回答してください』というお題がメールで届き、回答する。

わたしは「涅槃寂静」にこの写真を使わせて頂いた。


撮影したもの:青空に浮かぶ雲

解説:迷いの雲を吹き去るために、二大真理(諸行無常、諸法無我)に帰依し随順すれば、澄みきった青空のような大安心(涅槃寂静)がある。

(撮影日…2025.6.4 午前中)


このような、摩訶不思議で愉快なお題を回答しながら、凝り固まった見方が編集によって、柔らかい豊かなものの見方になるためのお稽古なのである。


わたしはその中で「再編集」ということを学んだ。


 

        ‥・*◆*・‥ 



光祥さまのおことばより


【いまの私は途中の自分。

いつも途中で次の道がひらけている。そんな自分を信じて、居心地のいい場所へ再編集する。】



        ‥・*◆*・‥ 



以前のわたしは、もうダメだと思ったら、次につなげる気持ちへと切りかえられないほど落ち込んでしまっていたけれど、編集のお稽古を通して、いくらでもやり直せるのだと学んだ。


そして、ダメな自分も、うまくできない自分も、それが「わたしらしさ」だと受け入れることができるようになった。


一つの出来事に対して、色々な受け止め方ができるけれども、どんなミカタをするかで、その後の関係が変わるんだと、母とのひとコマを通して実感した。


母が佼成会に行ってくれてて、本当によかった。


生意気な言い方になるかもしれないけれど、何度も、何度も【教え】という方法を使って、再編集をかけて歩んできた母の人生を誇りに思う。


病院の帰り道、わたしもその後に続いていきますと仏さまに誓った。


合掌

マリリン。☆.。.:*・°